見えるものだけ見ていたい

観劇した舞台や応援している若手俳優について思うところをつらつらと書いていこうと思います。すべて、本当にすべて主観です。

応援している若手俳優の呼称使い分け

はじめに

 俳優ファンをやっているのならば、彼をみるために劇場に通い、イベントに参加するために同じカレンダー、写真集を複数冊購入した経験があるだろう。もしあなたが「同じ物を複数冊買った経験はさすがに…」と思っていたとしても大丈夫、遅かれ早かれそんな経験をすることになる。では、一般的な生活を犠牲にしてでも会いたい、応援したい彼らのことを、8800円のチケット代はなんのためらいもなく払えるのに、880円のランチ代に多少のためらいを感じるあなたは何と呼んでいるか。「推し」?それとも「応援している人」?私は無意識の内ではあるが、応援している俳優の呼称を使い分けている。その使い分けの基準の有無など、そんな彼らの呼称について考察していく。

 

「推し」

 抽象的な話をしてもわかりづらいので、今回は私の「推し」を例に挙げて考察していく。

 私の推しは現在21歳、正統派イケメン俳優というには及ばないが、それでもかわいらしい顔をしている。近年の2.5次元舞台では「とりあえずこいつを起用しておけば当たる」という風潮でもあるのかと思うほど仕事が詰まった売れっ子である。だからといって、演技、歌などすべてが完璧!というわけではない(私論)。まず、彼の声はよく言えば特徴的、ハスキーだ。しかし悪く言うならば常に喉がつぶれているのかと思うようなガサガサとした声である。彼はそれが地声であり別に喉をつぶしてしまった訳ではないというが、体の中で一番弱いのは喉だとも語っている。仮にも舞台俳優なのだからその声なんとかしろ、腹から声出せ、と思っているが、こればっかりは本人の行動次第なのでどうしようもない。

 前述のように、私は推しのことを盲目的に好きというわけではない。むしろ好きなところよりも批判的な言葉のほうが多く出るくらいだ。ではなぜ推しているのか。なぜ。なぜなのか(困惑)。

私の「推し」に対しての感情が大きく変化するのは、いつも決まって彼を「観に行くとき」だ。前アナウンスが流れ劇場の明かりが落ちるその瞬間まで、もちろん楽しみではあるが、この公演と一つ前に観に行った公演との間に知った彼の良くない噂などが頭をよぎり、今日はちゃんと楽しめるか、この公演が終わったら推しから降りよう、と割とコンスタントに考えている。それでも舞台上に推しが現れた瞬間すべての邪念が消滅するのだ。公演中もその日の喉の調子や動きの良し悪しを気にかけてはいるが、ただ純粋に「来てよかった」と思う。推しが汗を流しながら演じ、歌う姿を永遠に見ていたい。なんなら24時間密着した映像がほしい、いや所持品になって持ち歩かれたい。ハリーポッターの透明マントを被ってアイアシアターの鏡横にたたずんでいたい。もちろんそんなことはしないが、とにかく彼をみることで私は最高の幸せを得ている。彼にはおいしいごはんを食べて、なるべく楽しく暮らしてほしい。そう願ってやまないのである。

 ただ、推しに対しての考え方で一つだけ誤解しないでほしい点がある。私は推しを「みていたい」のであって、決して「会いたい」訳ではないのだ。よって某刀のミュージカルでのファンサも別にいらないし、お見送り会も私の妄想かと思うほど楽しかったが、それは推しの反応を貰えたからではなく別の理由がある。また、写真集イベントでは三冊券を購入したが、別に一緒にチェキを撮りたいから買ったのではない。私は推しの人生の一瞬を切り取ったチェキが欲しかったのだ。それに推し以外が写っていようがいまいが関係ない。ただちょっと口角が上がったかわいい顔をした推しさえ写っていれば満足だったのだ。ここまで書いて自分でも苦しい言い訳に見えなくもないなと思っているが、どうか信じてほしい。私は推しを「みていたい」だけだ。極端な話をすれば、私は推しと付き合いたい訳でも、知合いたい訳でも、まして認知されたい訳でもない。許されるのならば毎公演紙袋を被って最前で観劇したい。私にとって推しは人間であって人間ではないのだ。それは私の推しの売り方やファンサの仕方に他の俳優とは変わったところが見られるのもひとつの原因だろう。もちろん推しのことは応援しているし、私はまぎれもなく彼のファンだ。赤の他人への感情とは思えないほど彼の幸せを願っている。接触イベントがあればどんな手を使ってでも行くが、それは私が彼の人生の一部を少しでも長く見ていたいからだ。その際は「私は記憶の片隅にも残らないから安心しろ」と自信に念じをかけ、自らの精神と戦いながらイベント会場へ向かい、抜け殻となって帰ってくるのである。

 以上のことをまとめた、私が推しに対して持っている感情は

 

・ニコニコと幸せに暮らしてほしい

・直せるものは直してほしい

・レスポンスはいらない仕事ぶりで返せ

・私を人間として認識しないでくれ

くらいだろうか。

私にとって「推し」とは「別次元」に存在するもので、彼を見ている間はすべてを忘れて楽しむことができる、いわゆるディズニーランドのような存在なのだ。ディズニーランドの裏事情は知りたいようにも思えるが、夢を壊されるような気がして知りたくない。期待と不安、抜け出したいようで抜け出したくない、そんな複雑な感情を、私は推しに対して常に抱いているのである。

 

「応援している」

 (「推し」と「応援している」を分けると推しは応援していないみたいになるが、そんなことはない。宇宙一応援しているから程よくつらい思いをして大人になってくれ推し。)

 こちらも前述のとおり抽象的すぎるとわかりづらいので、今回はみんな大好きたわだひでやくんを例に挙げ考察していく。

 たわだくんは関西弁がかわいい22歳の長身イケメン若手俳優だ。このようにたった一行弱書いただけでもわかると思うが、わたしは「応援している」人のことは盲目的に褒めちぎる事が出来る。これは人にもよるだろうし、推しのことは盲目的に褒めちぎることができても、応援している人のことは好みではあるがべつにそこまで好きじゃないという人は一定数いるだろう。別にそれはいい。とにかくたわだくんのことを全力で応援しているし、どんな時も安定して彼の活躍と幸せを願っているのだ。

 私が「応援している」と思うにあたり、まず一番に重要視するのが彼らの人柄である。気になる俳優を見つけたらまずインターネット上でみることができるブログや過去の活躍をかたっぱしから調べ上げ、彼らの言動や趣味、家族構成を知る。それをすることで多かれ少なかれ彼らの人柄が見えてくる。しかし、彼らも俳優なのだから世に出ている発言に嘘が含まれているかもしれない。実際「綺麗ごとすぎる」と感じた言動もあったような気がする。それでも彼らの周りの人が彼らに接するとき、彼らが家族の話をするとき、その印象がたとえ模範的ないい子でなくても、なにか惹かれるものを感じる。そこからもっと彼らのことを知りたいと思い、次第に彼らのことを全力で応援したいと思うようになるわけである。

 ここまでは「推し」への姿勢と似通った考え方が多くある。しかし、違うのはここからだ。まず、わたしは応援している人へ感謝の気持ちを伝えたい。その伝え方はファンレターでも、イベントなどで直にでもよい。常日頃からあなたの活躍で私は笑顔になり、元気になっています、本当にありがとうと伝えたいのだ。また、伝えたいということは少なからずレスポンスを求めていることにもなる。私が感謝を伝えることで、彼らもまた頑張ろうと思ってくれたら。そう思っているのは確かである。

 次に、これは応援している人でも種類を細かく分けたいのだが、例えばたわだくんならば現世で徳をガン積みして来世で結婚したい、たわだくんのような息子の母親になりたい、なんなら周りをたわだくんのような人で固めたいとすら思っている。このように私は、来世ではあるが応援している人と接点を持ちたいと考えているのだ。だからと言ってこれらを現世ですべて成し遂げたいとは思っていないし、恐れ多くてそんなことは思えない。現世の私はただのファンで充分だ。このように、あまり実感はないが、私は応援している人のことを同じ人間と認識しており、尚且つ同じ次元に生きていることもちゃんと理解している。これが「推し」との大きな違いの一つではないかと考える。

 以上のことから、私が「応援している人」に対して持っている感情は、

 

・常日頃から応援している

・安定的に「好き」という気持ちが途絶えない

・元気をもらっているので元気づけたい

・彼らの行動を盲目的にほめることが出来る

                      といったところである。

 また、言い忘れていたが先ほどから「彼ら」と表しているように、私には応援している人が複数人存在する。そのすべてを平等に応援しているわけではなく、観に行く舞台に偶然出演していたら「○○さんだー!」と思う程度から、舞台に主演することが決まった瞬間から狂気乱舞し様々なインタビューに涙を流す程度まで、応援の仕方は様々だ。また、現在の推しも思い返してみれば「応援している人」だったような気がしなくもないため、「応援している人」がいずれ「推し」になる可能性も完全に否定することはできない。否定はできないが、できればなってほしくはないと思っている。

 

まとめ

 この自己満足レポートを書き進めるにあたり、自分でもよくわからなかった「推し」と「応援している人」の違いについてわずかではあるが核心に迫ることができたように感じる。最後にもう一度これらの呼称の基準について振り返ることとする。

「推し」

・推しを見ているときと日常生活のなかで推しを思い出した時の感情の落差がすごい

・推しは「薬物」「ディズニーランド」

・存在認識はしないでほしい

→推しは特別であり布教などもっての外、同担との意思疎通は困難、触らぬ神に祟りなし

 

「応援している人」

・安定的に大好き、応援している

・会いに行きたい

・人に薦めたくなる魅力を持っている(と思っている)

→良さを共有することができる、穏やかさを保ちつつ応援できる

 

このように呼称の基準について考察してはみたが、最後にこれだけは言っておきたい。私は「推し」のことも「応援している人」のことも変わらず応援しており観に行きたい、それにあたって使用する金銭に対する感情には大差ないのだ。そして私は「推し」や「応援している人」に感謝してもらうために観劇をしているのではない。私が観たいから、彼らの収入に少しでも貢献し、おいしいごはんを食べてほしい、彼らの夢や目標を実現する姿をみせてほしいから観劇しているのだ。この趣味はコストパフォーマンスが最悪だ。そして時に裏切られたような気持になることもある。それでもやめることができない、やめられないだけの楽しさや高揚感が、そこには詰まっているのである。

 

 ※これまでに書いたことはすべて主観であり、万人に当てはまるものではないことを最後に言うのも何だがご了承願いたい。