見えるものだけ見ていたい

観劇した舞台や応援している若手俳優について思うところをつらつらと書いていこうと思います。すべて、本当にすべて主観です。

初心にかえる

高校時代、私は生粋の二次元オタクだった。1クールごとに見るアニメを熟考し、くじの発売日には雪で全交通手段がストップしている中、最寄りのアニメイトまで長靴をはき歩いて行った。特にとある乙女ゲームに陶酔しており、高校の家庭科の授業で何故か婚姻届を書かされた際には迷わず彼の名前を書いた。そしてそれを隠すでもなく、残りの高校生活、私のあだ名は彼の名字となった。今思うとなかなかに痛々しいものである。高校を卒業してからはある程度落ち着いたものの、そのゲームの舞台と言われる町へ出向き、彼の住む町にあるカフェと同じ名前のカレー屋へ行ったり、海辺に立って全力で思いを馳せたりもした。歳をとり落ち着いたようにも思えていたが彼への愛は全く冷めてなどいなかった。私のオタク人生の中で、あの頃ほどなんの悩みもなくただただ趣味に没頭できたことはない。私にとっての彼は、すべて私の中にいたからだ。彼は予想外のことを言うことも、することもない。それほど活気のあるジャンルではなかったため、滅多なことでもない限り新規ストーリーなどこない。年に一度のイベントで意外な一言が出ても、ここはオタクの見せどころ、脳内補正はお手の物だった。

高校卒業後、このゲームが実質植物状態のような状況に陥っていたこともあり、私はどこのジャンルにどっぷり浸かることもなく、ゆるーくオタクを続けていた。このままいけば私はパンピになれるかもしれないなんて、今では鼻で笑ってしまうようなことを考えたりもしていた。しかし転機が訪れたのは、大学に入ってできたオタク友達が、とある二次元原作の舞台が当たったから一緒に行こうと誘ってくれた時のことだ。原作は好きなジャンルではあったが、正直二次元の三次元化(当時は2.5次元という言葉自体を知らなかった)には良い印象がなかった。乗り気ではなかったが、「批判するにしてもまずは見てみなくては」くらいの気持ちで、私は例の舞台を観に行くことにした。

 

そこから今までは早いものだった。初めて観た舞台の音楽や演出に衝撃を受け、慌てて出演者について調べ、その人達が次に出演する舞台のチケットを軽率にとり、そこで見た俳優について調べ、またチケットを軽率にとりの繰り返しだ。大した趣味がなかったためそこそこあった貯金を使い、ストレートもミュージカルも関係なく、ただ気になる俳優や舞台のチケットをとっていた。ただ、今こうして苦しく楽しく趣味に没頭していられるのはすべての運とタイミングが良かっただけなのかもしれない。例えば今狂ったように推している俳優を二度目に観に行った時、もしあの時あと数日遅ければその公演は千秋楽を迎えていた。その次の公演がもし落選していたら、ここまでは推していなかったかもしれない。そう考えると、降りたい降りたい言っていられるうちが幸せなのかもしれないとさえ思えてくる。だって本当に降りるときは考える隙もなく降りるのだろうから。

 

前置きにしては長すぎる自分語りをつらつらと書いてしまったが、ここで初心にかえるべく、舞台や俳優にハマってすぐの頃、何に衝撃を受け、何に感動したかについて思い出していこうと思う。

まずこれは言うまでもないくらい当たり前なことだが、彼らがみんな「生きている」ということだ。これには本当に衝撃を受けた。某乙女ゲームではまるでキャラクター達が同じ時間軸で生きているかのようなツイッター企画が時々行われているが、それはあくまでも「運営側」の徹底された作り込みの成果だ。こんなことを言うとそのゲームファンの友人におもいきり殴られそうだが、どうしても裏側が気になってしまうのだ。しかし、俳優達は生きている。リアルガチで生きているのだ。意味が分からない。私が日の入りを確認したその瞬間、彼らの世界でも日の入りが確認されるのだ。絶対起きていないけど。そもそも彼らの世界とかそういう概念はない。同じ世界線上に生きているのだから。重ね重ね言うが、私がランドセルを背負っていた六年間のうちの数年、推しやたわだもまたランドセルを背負っていたのだ。ランドセルを背負っていたのだ‼!!これを実感した時ほどこの時代に生まれて良かったと思ったことはない。この空の下のどこかで彼らは生きているんだー!!!と、模範的すぎることを毎日毎時間考えていたものだ。なかなか愉快なものである。

この喜びを、最近私は忘れがちな気がしている。応援している俳優に仕事さえあれば、あとはこちらががんばればその姿を裸眼で確認することができる。この状況が当たり前になってしまったからだ。もちろん空を見上げて都心にいる俳優に思いを馳せるよりかは、入れる限り現場に入ったほうが生産性のあることをしていることに変わりはない。ちなみに「現場に入る」ことについては後で触れたいと思う。兎にも角にも、私は俳優が同じ人間であるという事実に対するありがたみを忘れているのだ。誰にありがたがるんだよという話になる気もするが、そこにはあえて触れないでおく。

高校時代大好きだった彼は、私が何をしようが会える場所なんてせいぜい夢の中だった。つまりはいないのだ。自分で言っていて悲しくなってきたが、彼はいない。いないとはなにごと…!!?

とはいえ、「生きている」ということに関して取るに足らないことではあるが、ちょっとしたデメリットも感じている。それは彼らがオンリーワンということだ。今まで私はどんなにそのキャラクターを推していても同担拒否という概念を持つことはなかった。私の彼は私のPSPの中にいるのであって、他の人のPSPの中にいる彼は彼であって彼ではない。イベントで大スクリーンに現れる彼はその集合体なのだ、という、とんでも理論のもと愉快なオタクライフを送っていた。しかし、俳優達は若干の意識操作はされている気もするが、こちらがどんな人物像を想像しようと彼ら自身の性格は変わらない。そしてそのワンパターンの彼しかこの世界にはいないのである。ワンパターンというと薄っぺらさが出てしまって語弊があるが、ようは正解が一つしかないということだと思う。よくわからないけど。したがって私は、推しがSNS上で「彼はこんな子!」と言い切られていると多少苛立つ。おまえは一体何をしってるんだよと。もちろん私も何もしらない。推しに関してはマジでなにも知らないわからない。次に出るであろう言葉なんて予想しようものなら真反対の言葉が出てくる。意味が分からない。それでも言い切られているところを見ると、推しの可能性をそこで止められているような、または推しの二次創作を見せられているような気分になるのだ。二次元の二次創作はガンガン見ていたので大体のものは許容できるのだが、存在しているものの二次創作は昔から本人に対して申し訳なくなり苦手としている。まあ趣味嗜好は人それぞれなので、私がそっとブラウザバックすればいい話なのだが。

 色々書きはしたが、これからも彼らが同じ時間軸で生きている事実を噛みしめ、尚且つ彼らの勇姿を生で見るべく現場には入れる限り入っていこうと思う。

 

 次に「現場に入る」ということについて書いていく。こちらは理想や夢だけでは語れないことだが、とりあえず書き進める。舞台や俳優を趣味とすると、ゆるゆると二次元オタクをやっていた時より何倍もお金がかかる。これはたびたびきつい状況を生み出す要因となるが、こればっかりは仕方がない、それが社会の仕組みなのだ。とはいえ、「彼らのために舞台を観に行ってあげている」と思ったことは一度もない。私が彼らや彼らの出演する舞台を観たいから観に行っているのだ。私は常日頃から彼らの勇姿を見て力をもらっている。時々映画を観に行くとそのクオリティの高さとコストパフォーマンスの良さに惹かれ、自分は何故この趣味を続けているのかと自問自答をしてみたりもするが、それでも再び舞台を観に行けば、なんてすばらしい趣味を持ってしまったんだろう!!この世界に感謝!!となってしまう。我ながら単純明快な頭をしていると思う。話はそれたが、この界隈にハマった当初、「お金を払えば裸眼で観られる」という状況に感動していた。ゲームの彼はいくら金を積もうと会える場所なんて液晶画面上かせいぜい夢の中である。得意の脳内補正で足りない部分を補いはするが、私も一応現実世界の住人である。できることなら液晶画面を突き破らなくとも推しに会いたい。それが簡単に実現できてしまうことが、とびぬけて嬉しく感じていたことを今でも鮮明に覚えている。いやあ嬉しかったー。

 

嬉しかったことばかり挙げてしまったが、はまってから結構時間が経った今でも一つ心配に思っていることがある。それは、私が二次元オタク故に俳優達を一つのキャラクターとしてとらえてしまうことだ。人間である限り、漫画やゲームのキャラクターのように「○○キャラ」というくくりで判断することは難しい。もちろん俳優や事務所が「自分は○○キャラで売っていこう」という信念でも掲げているのならそれはそれで別にいい。「公式は至高」だ。しかし、「彼は弟キャラだから~」とか、「ツンツンしてるよね~」だとか、ひとつのくくりで彼らをみることは、もしそのイメージと異なる姿を見てしまったとき、彼らは何も悪いことなんてしてないのに(してる場合もある)、勝手にイメージダウンし、ショックを受けることになる。それはさすがにあんまりだ。できることならそれは避けたい。したがって、なるべく、本当にできる限りではあるが常に応援している俳優達はどんな人間なんだろう、こんな時どんな言葉を言うんだろうと、探求心とまではいかないが気にして気にして気にしまくるようにしていたい。俳優ファンでいるにあたって、そこまで彼ら自身のことについて深く考える必要はないのかもしれない。それでも気になってしまうものは気になってしまうので、おそらくこれが私の俳優応援スタンスなのだろう。

 

今きっと、私が応援している彼は俳優人生のターニングポイントに立っているんだろうな。そんなことをぼんやり考えていて、どうも落ち着かなかったので初心に帰るべく書き始めたこの自己満足レポートだが、やっぱり今の趣味はいつでも新鮮さが隠れていて楽しいなと思えるようになったので、長くなったが書いてよかった。手元のチケットがすべてもぎられるまでは絶対に死なないぞと思えることは、精神衛生上はともかく生きていく上では結構いい考えなんじゃなかろうか。